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醸室はこんなところです

醸室イメージキャラ 蔵子ちゃん

醸室イメージキャラ 蔵男くん

みちのく古川 食の蔵 醸室

 古川地域の人たちの原風景であり、古くは万葉集に詠われた「をだえの橋」。「食の蔵 醸室」は緒絶橋のたもとに建つ、江戸時代後期(寛政2年)より続く「橋平酒造店」の歴史ある建物を改装し,平成17年に誕生した商業施設です。醸室という名前は、橋平酒造店8代目佐々木淳一さんが「醸造」と「麹室」という酒造用語を合わせて命名したものです。中には大小10棟ほどの蔵があり,食事や特産品などを販売する個性的なお店が並んでいます。

みちのくの「緒絶の橋」(をだえのはし)

 歌枕としての「緒絶の橋」は、初期万葉の時代から「白玉之緒絶者信」(しらたまのをだえのはし)と詠まれ、源氏物語の藤袴の巻でも悲恋の心情を表現するものとして詠まれています。
 「緒絶」の由来には,嵯峨天皇の皇子が東征のために陸奥国へ赴いたおり、その恋人だった白玉姫は余りの恋しさに皇子の後を追うように陸奥へ向かいました。ところがこの地に辿り着いてみても、皇子の行方は掴めない。意気消沈した姫はそのまま川に身投げをして亡くなってしまった。土地の者は、姫の悲恋を哀れんで“姫が命(玉の緒)を絶った川”という意味で緒絶川と呼ぶようになった,という伝承が残っています。

 歌枕としての緒絶橋は、白玉姫の伝承にあやかって“悲恋”や“叶わぬ恋”を暗示するものとなっています。

 

「みちのくの をだえの橋や 是ならん ふみみふまずみ こころまどはす」

 最も有名な歌は,中古三十六歌仙の1人、藤原道雅の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』に採用された悲恋の歌です。

(意味) みちのくにある緒絶の橋とはこれのことだったのか
    手紙をもらえたりもらえなかったり、その度に心をまどわせる…
    あなたとの繋がりが絶えてしまいはしないかと…
    いつ断ち切れてしまうかわからない橋を、

    踏んだり踏まなかったり、恐々と渡るようなものだ。

 これにより「をだえの橋」は歌枕として定着しました。

玉の緒と橋平酒造店

 緒絶橋のたもとで,「玉の緒」=生命という名を冠した清酒を造り続けている老舗蔵元橋平酒造店。かつては酒造りのほか,小作地を多く持ちながらも,魚問屋,質屋,味噌しょうゆ製造なども商いにする豪商でした。現在酒造りは委託製造ですが,その信念は歴史を超え今なお受け継がれています。

釜神神社と釜神さま

 醸室の広場には、釜神神社と鳥居,そして驚くほど大きな釜神様があります。釜神は宮城県北部から岩手県南部にかけて,民家や釜場の上にかけてあるいかめしい面相の木彫りの面です。

 火は人の生活に欠かせない存在である一方で,扱いを間違えれば,財産,生命,すべてを失う恐ろしい存在。人々は火を畏れ,敬い,火を祀るようになり,それが火の神への信仰に発展し,火を守ってもらうために火を扱うところに釜神様を祀ったと言われています。

 釜神様は時代を経るにつれ,火を守るだけでなく,魔除けなど多くの役割を持つ神様となり,家全体を守ってくれる神様になったと考えられています。醸室の前身である橋平酒造店の釜場にも代々祀られていました。

 この大きな釜神様は平成20年に醸室のシンボル的存在として設置されました。そして橋平酒造店の氏神様である玉の緒明神に釜神様が合祀され,釜神神社として親しまれています。

蔵の歴史

かむろmap.png

母屋2

母屋1.2.3

この母屋は施設で最も古い建物です。かつての平屋部分は瓦ではなく木片葺(こばぶき)でした。表通りに面したかついての店舗は大正14年に土台を上げる改修を施しましたが、それ以前は奥州街道であったため、2階から大名行列を見下ろせないように、わざと極端に天井が低い構造で造られていたそうです。その後は隠居部屋や客間として活用されていました。

蔵1

明治初期に建てられ、かつては文庫蔵・質物蔵でした。ついこの間までは清酒の製品倉庫として使用されていた土蔵です。

蔵2

明治中期、おそらくは「気仙大工」の手による最も吟味された造りの蔵です。佐々木家の家財蔵であった場所で、今回の工事前の引越しの時、数百点の古物が出た場所です。

蔵3

蔵2同様、店や蔵に従事していた人々が使用したお椀やお膳、火鉢や茶釜、青銅製の鏡など多くの物品が出た土蔵です。最近までは製品に必要な包装資材や、清酒の製品や酒米倉庫として活用されていました。

蔵4.5

大正から昭和初期、比較的新しく造られた蔵です。酒造りに使用する為のお米を精米していた場所で、天井が高く造られています。

蔵6

他の土蔵の蔵と違い、土は一切使用していない木造の板倉です。樽やコモ(わらで作った化粧カバー)等の包装資材を貯蔵していた場所です。

蔵7

煉瓦づくりの装いの蔵7は、麹室だった場所です。私たちの思いも、蒸されたコメが麹米へと変化していくように、発酵・熟成させていきたいという、醸室という名称を生むイメージにもなった特別な蔵です。

蔵8

仕込み蔵であった蔵8は施設内の土蔵としては最も新しく、構造的にもシンプルかつ斬新な蔵です。大正時代、大工さんと当主が近隣他県の優秀な蔵を見学し、先人の匠を学んで建築した当時最先端な構造でした。ついこの間まで大きな桶が立ち並んでいた広大な空間です。

蔵9

仕込み蔵の北隣りに位置してるこの場所は、仕込みの際に使われる道具の一部や、断熱保温するためのムシロなどが保管されていた場所です。

蔵10

酒造の工程としては後半にあたる「搾り」と「瓶詰め」が行われていた場所です。江戸末期ごろに建てられ、大正時代に土台上げ補修を施された、最も古い土蔵です。

離れ

もともと母屋に隣接していた屋敷の一部で、長い縁側付きの住居部屋でしたが、大正時代に今の場所まで引き屋されたあと、縁側部分をほぐしてリニューアルされた建物です。

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